スポンサーリンク

いびつな家族なりのバランス

PTSD
スポンサーリンク

雨の降った週末。

娘と2人、今週も出かける予定もないし、夫も仕事でいないし。娘は暇そうにしていて、私の家事が落ち着いてくると、大体いつも娘に言われることがあります。

それは、

『お母さん、何かして一緒に遊ぼう。』

本来母親と子供が一緒に遊ぶなんて当たり前の光景なのかもしれませんが、私には母親に遊んでもらった記憶は1度しかありません。

その貴重な1度きりの思い出も、やっぱり怒鳴られていてあまり好きじゃない。

そもそも、私は怖くて母親に近寄れなかったから、『一緒に遊ぼう。』なんて声を掛けてくる娘には母として「嫌がられていないんだな」なんて思うと、ちょっと安心している自分が居ます。

子どもと楽しく過ごす自信がない

そんなことで娘の心を判断して、勝手に安心している自分がちっちゃい人間と思わなくもないのですが、本当に母と一緒に居た記憶が無く、娘を産む前は子どもとうまく遊べる親になれるのだろうか?と不安に思っていた事もありました。

どうやって遊んであげたらいいか分からないんです。そもそも接し方すら微妙。

私が4歳くらいのころ、珍しく母から誘われてフェルト生地で指人形を一緒に作ろうとしたことがありました。しかし、母が少し席を外した間に、私が布を切るところを間違えてしまって、戻ってきた母が激怒・・・。怒鳴られて中断してそのまま終わりました。

今思えば幼稚園児じゃ無理もないと思うけれど、子どもながらに

「お母さんと遊ぶのは疲れる。」「お母さんと遊ぶのはもうやめよう。」

と思ったことをハッキリ覚えています。だから、以後母との接点は何かの連絡と叱られる時のみ。

そんな私と母の代わりに一緒に居て、遊んでくれたのはいつも祖母でした。

母が私をなるべく殴らないように

祖母は家でも良く遊んでくれましたが、一番印象に残っているのが、よく2人で、デパートに行っていた事です。

母は「娘を取られた」と思っているし、祖母に対して「遊んでばかりで何もしない」「浪費家」「マリーアントワネット」なんて陰で言っていましたが、今思えばあれは母がこれ以上罪を作らないように、少しでも引き離そうとしてくれたことだったと思っています。

そして祖母は毎夜深酒をし、泣き言、ぼやきばかり言う祖父の相手をしなければなりません。自分の機嫌を整えるためにも、そして母親の近くに寄るだけで、暴言と暴力を受ける孫のためにも、この家では理にかなったことでした。

そんな家に居場所のない2人が、週3ペースでデパート街をさまよっていたのですが、他の人には「頻繁に街に買い物に行ける優雅な家のおばあちゃんと孫」に見えていたようでした。実際はそんな良いものではなかったのですが、昼間、買い物に行くと家を出てしまえば私たちは安心したランチをとり、怯えることのない楽しい時間を過ごせるので、私には大切で楽しかった思い出でした。

知らない間に私もそうしていた

今になって思うと、私と娘も同じようなことを以前していました。

義母と同居をしている頃、家に居ることがストレスに感じてくると、私はよく娘を連れて2人でショッピングモールや児童館・公園に行っていました。娘はどう思っていたか分かりませんが、少なくとも私は緊張感から解放され、自分らしくいられた時間だったと思っています。

では、家から出られない時はどうしていたか。それはみに先生に教えて貰ったことですが、

「家の中のどこかに、小さくてもいいから自分だけのスペースを作る。」

ということでした。同居していた時は唯一夫婦の寝室のみ、お姑さんが入ってこないところでしたから、そこだけは自分の好きなようにさせてもらっていました。

思い起こせば、子どもの頃の自分だけの安心できるスペースは祖母の部屋の縁側。

小学生になってからは、そこに勉強机を置いてもらいました。でも縁側といっても実際は廊下で夜は寒いし、「なんでこんなところに??」と誰もが思う場所でしたが、母がいつも居るキッチンからは遠く、祖父母の部屋付近には殆ど寄らなかったため、私は安心して勉強できたんです。

親になって思うこと

娘とはおかげさまで、クッキーを作ったり、工作をしたり、TVゲームをしたり2人がお互い楽しいと思えることで遊ぶことが出来ています。それはちゃんと、祖母がしてくれた楽しい思い出が生きているからこそだと思っています。

もし、私が核家族で父母しかいなかったら、おそらく私は子どもと楽しく遊べるような母親にはなれなかったと思っています。それ以前にいつかそんな母を恨み、暴力事件を起こしていたかも知れないし、嫌になって自ら命を絶っていたか、行き過ぎた母の虐待から命を落としていたかも知れません。

祖父母のおかげでそれが食い止められていたと思います。不思議なもので、母には元凶としか思っていなかった祖母は、私にとってはあの環境で生き抜くための”救い”でした。

親になるということは、経験値0の未熟な姿からスタートします。 

誰でも、みんなが初めて。親って完璧じゃなくていいのかもしれません。

容姿端麗、プライドが高く優秀だった母の子育ては、育児書どおりでこれまで賞賛を受けた自分の姿を重ねた“鉄壁の型” に無理やり子供を押し込むものでした。

そう言えばあの七五三の写真を見たみに先生は、

「子供から笑顔を無くす子育てはダメなのよ。辛さと、悲しさと、恨みでお互いが不幸になっちゃうのよね。」そう言っていました.。

いつか母と同じことをやってしまうんじゃないかと不安だらけの私に今、まだ歯が生え代わり途中の娘が私に屈託のない笑顔を見せてくれてます。

スポンサーリンク
PTSD子どもの頃のこと
スポンサーリンク
シェアする
Meisuiをフォローする
楪~yuzuriha~

コメント

タイトルとURLをコピーしました